霊鷲山の百八観音の縁

ミャンマーの国境にある小さな村からお話しましょう…!

1948年、心道法師は、ミャンマー ラショー(Lashio)区ライダオ(Laidao)山区のライカーン村(Laikaan)村で生まれました。そこは雲南省に近い辺境の地で、「黄金の三角地帯」に属する小さな山村でした。

ライカーン村は貧しい村で、多くの戦火浴びてきました。この村に一人の楊小才と言う名の鍛冶屋がいました。常日頃、ビルマとミャンマーの国境で農具の修理をしていたのですが、仕事は余りありませんでした。この省・府・州県などが三つ接触しあう境界地域は、行政の空白地であり、多くのケシが植えられていました。そのため彼は仕事がない時はアヘンを吸っていたのです。

その年の秋、楊小才の妻は一人の子供を出産しました、名前は楊小才…後の心道法師です。楊小生が生まれたその日、村にはいくつかの不思議なことが起こりました。まず一つ目は、その日、ある村人が楊家の入り口に3人の僧侶がやってきて、何かを相談している様子を目撃しました。その後僧侶の一人が家の中に入り、他の二人は去って行きました。しかし、楊家に入った僧侶は、その後、姿が全く見えなくなったそうです。もう一つ。それは同じ日の夜、大風雨となり、稲妻が走り雷が轟きました。この地では、こうした異常気象は滅多に起こらないことから、この小さな村に多くの憶測や伝説を呼び起こしたのです。

貧しい山村に生まれながらも、両親や親戚の愛情に包まれ、楊小才は幸せな日々を送り、2年後には楊小生に妹ができました。

しかしこの幸せな日々は長くは続きませんでした。楊小生が4歳になった時、ビルマ共産党との衝突で、父親は捕虜となり、その後殺害されました。その数日前、楊小生の母は妹を連れて家を離れ、その後、音沙汰はプッツリと途絶えてしまいました。

楊小生は4歳で孤児となり、9歳まで叔父、叔母に育てられました。

ある日、一人の男が叔父の家にやってきて、楊小生と話をしました。その中で、「君は勉強をしたくないか?」と聞かれ、その言葉に楊小生の心の炎が燃え上がりました。幼い頃から戦乱の環境下で育った楊小生は、平和と安定に思いを馳せており、勉学こそが平和なこと、或いは平和を促すために役立つものだと考えていた楊小生は、この男性に付いていくことを決めました。一つは自分の夢を追いかけるために、もう一つは叔父達の負担を減らすためでした。

その後、楊小生は他の100人の子供と同様、騙されたことを知りました。学校で勉強をするのではなく、兵隊にされたのです。

楊小生が配置された軍隊は、ミャンマーにゲリラの形で駐留していた国軍三十五軍団でした。9歳の楊小生は、これまでとは全く別の生活…山を越え峰を超え、行軍、戦いを強いられた生活を送ることになったのです。その後、楊小生は名前を楊進生に改めました。

ある日、楊進生は隊の仲間と隠れん坊をして遊んでいた時、赤いミャンマーの袈裟を身に着けた僧侶が湖の上を高くよぎる不思議な光景を目の当たりにしました。この様子に衝撃を受けた楊進生は、心の奥深く、阿羅漢に対する深い印象と敬慕の念を抱いたのです。

当時の楊進生は、まだ仏法を知りませんでしたが、何故かどの仏塔寺院も楊進生を言い表せないほど魅了し、必ずと言ってよいほど仏塔寺院内に入り、よく見たり、座禅を組んだりもしました。戦乱、そして銃や弾薬を共にする、生死瞬時の生活に嫌気を感じた楊進生は、心の中で、より一層の平和を求めるようになりました。幸いなことに、1961年、台湾政府が国際連合の圧力の下で、この孤軍を台湾に撤退させたため、13歳の楊進生も、こうして宝島-台湾にやって来たのです。

 

観音と心道法師

台湾にやって来た楊進生は、ようやく学校で勉強をする夢が叶いました。当時、楊進生には観音を礼拝する仲の良いクラスメートがおり、菩薩の故事を話す時、必ず "観音娘娘"がどうのこうのと話すのです。この"娘娘"(にゃんにゃん)の発音は、お母さんという音と同じであったため、楊進生は訳もなく感動しました。恐らく小さい時から母親がいなかった自らの境遇に触れたのでしょう。流した涙は止まることはありませんでした。

当時、楊進生は、まだ軍隊にいたのですが、ある陸軍軍医が楊進生に、観音菩薩が出家し、世を救い、悟りを開いて仏となった物語を語りました。それを聞いた楊進生は「これこそ僕がやるべき事だ!」と悟り、観音菩薩に倣い、人を救う事を心に誓いました。楊進生が彼の生涯で初めて手にした仏経経典は "観音菩薩普門品"でした。

楊進生には李逢春という名の親友がいました。二人はいつも一緒に読経し、座禅を組みました。ある日、李逢春が精進料理を食べることを提案し、二人の少年は菜食で修道することを誓い、ご飯に塩、生姜、果物などといったベジタリアンの生活が始まりました。

ベジタリアン生活は簡単なことではなく、李逢春は暫くして辞めてしまいましたが、楊進生はあきらめることなく、頑なに仏への誓いを堅持しました。このように、道を求める心が日増しに定まっていった楊進生は、ある日突然、ミャンマーの僧侶達が、経文を自分の体に入れ墨している事を真似てみようと思いついき、十五才の楊進生は、自らの手で自分の身体に入れ墨をしたのです。左腕には「吾不成仏誓不休」(吾仏になるまで休まないことを誓う)、右腕には「悟性報觀音」(知性を観音に報ず)、腹部には「真如度衆生」(真如衆生を済度する)又、両手の手の甲と手の平、そして胸には「卍」(まんじ)の字を入れました。想像を絶するほどの痛さにもかかわらず、麻酔もせずに一針、一針これらの字を入れ墨したのです。正に観音菩薩の恩に報いると誓った少年の誠の心を無限に表しています。

20歳になった楊進生は、ついに軍隊を離れ、社会事業に着手しました。24歳の時に親友の李逢春が病死しました。この出来事は、楊進生をして生命の無常と苦しみを深く悟らせることになり、出家することを決意しました。25歳で観音菩薩が出家したその日に僧侶になることを選んだ楊進生こそ、正に後に霊鷲山を開山した心道法師なのです。

その後、十数年にわたり、心道法師は乞食の行をし、摩訶迦葉(マカカショウ)とジェツン・ミラレパ(Jêbzün Milaräba)を師とし、塚間修、寂静修、断食閉関修行を経て、ついに光が明るく澄み渡たり、大日如来が広大な智慧の光で、無明の闇を照らすかのような精神や知性を悟った心道法師は、阿羅漢道から菩薩道の弘法修行の道へと歩みを進めました。そして1983年、霊鷲山の無生道場は観音成道の日に落成し、開光したのです。

心道法師は、「小さい頃、母は私を置いてどこかに去り、孤児になった私は、母親に特別な想いを抱いていました。出家した後、私はずっと観音菩薩と共におり、身近なものとして親しんできました。私が修行したものは観音法門なのです。」と語っています。

霊鷲山と百八観音

自らを「観音菩薩の下僕」と自負する心道法師は、元々ネパールに百八観音があることを聞いたことがありませんでした。しかし、数年前、縁があって、一枚の百八観音図を目にしました。霊鷲山教団は、この時から一歩一歩百八観音の探索や研究を開始し、学者や専門家の方々に教えを仰いで、ついに百八観音の源がネパールの、本殿の外壁に百八観音の銅質浮き彫り塑像が嵌め込まれている「白観音寺院」であることを突きとめたのです。

一方、法師達も「大蔵経」の中から顯宗や密宗に関する文献資料を探す出す作業に着手し、より多くの百八観音に関する情報を探し出すことを期しました。その後、途中であきらめず最後まで努力したことが些か効を奏し、台湾の「大華厳寺」から、二枚の「百八観音タンカ」を見つけることができました。この二枚のタンカはチベット密教でもなく、中国伝来の風格でもなく、正しくネパール風の画風でした。また現地調査に依る情報の助けもあり、百八観音の源探しは徐々に明らかになっていきました。

心道法師は、このように述べています。「観音は一体だけなのですが、どうして百八体の観音があるのでしょうか。それは観音の慈、悲、喜、捨の功徳により、多くの異なった化身が現れた訳ですが、その実、本尊は一体のみです。ネパールの「白観音寺」には108体の観音がありますが、どの観音にも、それぞれ異なった形と名前があり、役割も同じではありません。観音菩薩を以って、全方位の生命として姿を現したと言う事ができます。つまり百八種類の形を以て、衆生を助け、衆生の一切の苦しみを取り除き、衆生をして仏法の灌漑を得さしめるのです。」

「このように沢山の観音菩薩がいますが、実は一体の慈悲観音が現れて、様々な方法で慈悲の力を示しているのです。それは二つに分けられます。一つは顕体、もう一つは顕用です。顕体の時は不生不滅の観音。顕用の時には衆生に八万四千種の悩みがあれば、観音菩薩は八万四千種の方法で衆生の苦しみを取り除くのです」

また心道法師は「衆生は往々にして安心感がなく、生生世世(生きかわり死にかわりして生を得た世)を一体誰が彼らの業力に寄り添い、助けてくれるのか。彼らを苦難から救ってくれるのは一体誰なのかを知りません。私が仏法を学んで来た経験から言えば、観音菩薩はそれが出来ると思っています。つまり業力が輪廻する時、菩薩があなたの業力に寄り添い、苦難の時にあなたを救い出すのです。この助けられる過程に於いて、徐々に観音菩薩への信念が備わり、この信念がどんどん積み重なり、こうして苦難の衆生は、観音菩薩という頼ることができ、身を委ねる事のできる心強い頼りがあるため、まるでホームランになることを保証されているようなものです。ですから、私はいつも縁のある衆生に、観音菩薩が縁のある衆生を推薦し、彼らが安心感を持てるようにして下さっているのです。」と話しています。

百八観音の復興と伝承

観音法脈は霊鷲山の根元であり、永遠に絶えることなく伝承されるものでもあるのです。このため、特別台湾の著名な彫刻家である林健成先生とクンサンチェペーラマのお二人を要請して、百八観音の彩銅彫刻とタンカの新たな創作に取り掛かりました。そして数年の時間を経て、世界で唯一の完璧な「百八観音」聖像が2組出来上がりました。目下、「百八観音の彩銅彫刻聖像」は聖山寺に安座されており、また「百八観音図冊集」も出版されました。

百八観音聖像は、観世音菩薩が衆生を済度するために108種類の形を取って現実の世界に現れたもので、工芸美術に於ける非凡な価値を有しているだけではなく、観音菩薩の108種類の精妙な化現を目の当たりにでき、芸術の美の中に観音の慈悲と知恵を理解し、更に無常の幸福を感じて頂くことができるのです。

「百八観音も《普門品》の一種である示現の方法と等しく、より多くの、観音と縁のある方々に観音菩薩を学習してもらい、善業を成就するのです。」

霊鷲山の「百八観音」をテーマに関連した出版計画や活動は、「全ては皆さんに百八観音を認識し、百八観音の知恵と善業を学んで頂く為のものであり、こうした異なった志向から、生死の迷いを去り、一切の真理を正しく平等に悟る正等正覚に入る手立てをして、習慣の違うそれぞれの衆生が善業を成し遂げ、無量有情の衆生は法門の道に因り、仏陀の深く広い知恵を悟るのです。」

百八観音寺から余り遠くないカトマンズの郊外に、霊鷲山の「ネパールミラレパ禅宗センター」があります。センターの中には最も有名なミラレパが修行した洞窟やその昔、龍樹菩薩が説法をした地もあります。聖地を末永く継続、保存するために、霊鷲はこの地に修禅道場を建造し、付近の多くの寺院や神廟聖地の遺跡等と互いに映え合っています。そこでは遠い所からやって来た修行者の為に、清らかで気持ちが落ち着くと同時に、食料なども備えている修行道場を提供しています。

心道法師は「ネパールはヒマラヤ山脈に位置しており、古くから聖者の所在地であり、また隣接するチベット、ブータンも多くの聖者を生み出しています。所謂、悟りを開き、煩悩や苦悩を断ち切り、大きな慈悲を有した人を生み出す所なのです。私は、ここに道場を設けて、修行をしたい人を迎え入れ、堂にこもり座禅修行してもらう場所にするべきであると考えています。彼らが仏法を学び達成できるようにしてあげたいのです。」

「私の願いは、誰もが発心して修行ができることです。ネパールの聖地の善縁に依り成就し、皆が閉関、禅修行と巡礼観光ができる。これも我々がサービスを提供できる良い機会であると思っています。」と語りました。

全く見当もつかず、手がかりのない情況から開始し、10年近くの歳月を経て、今やっと百八観音彩銅彫刻の聖像とタンカの貴重且つ偉大な作品が完成しました。心道法師は、我々は身近に百八観音の彩銅彫刻聖像を仰ぎ見る福を得たからには、更に観音菩薩の無限で広大な同情心を会得し、慈悲願力を学ぶことを期しています。

観音の願力を力行:愛と平和の地球の家

霊鷲山が1984年に開山し、1994年から心道法師は世界各地で宗教交流を開始しまし、各宗教の朋友と友誼の橋を架け、共に愛と慈悲を以て世界に関心を寄せることを願い、2001年「世界宗教博物館」を創設しました。20年余年、長期にわたり、「地球一家、生命共同体」の観念で、各宗教が己の見解を取り除き、共に手を携えて「愛と平和地球家」の世界を促進しています。世界宗教博物館の「尊重・包容・博愛」の理念を延伸するため、心道法師と和霊鷲山仏教教団は、近年來「生命和平大学」の創設に力を尽くしています。これもまた、世界へのもう一つの素晴らしいプレゼントになるのではないでしょうか!

ミャンマー北部のラショー区にある「生命和平大学」の基地は、将来完全な教育システムを確立し、宗教理念を超えた平和の種子を養成する他、孤児の収容、無農薬農業の推進、慈善、医療、教育などを通して、地元の多様なエスニックと調和と共生を促進し、そして「民族宗教館」を建設して、「地球を愛し、平和を愛す」理念を促進して参ります。

心道法師 は「ミャンマーはまだ開発されていません。ですからまだ学ぶこともできれば、変えることも可能です。大規模開発される前に、また汚染が蔓延する以前に、私たちは環境保護の概念をもたらすことができるのではないでしょうか。もしミャンマーが汚染のない国になれるならば、それを推進し、別の国からやって来た人にも地球を愛する様々な方法を学習してもらうことができます。我々はこの地で、地球を愛する全世界運動を推進して、地球平和の永続発展をミャンマーの、この新しい開発国家の中で展開することが出来るのではないでしょうか!そしてそこは、私達のために地球を愛し平和を愛する推進センターなることを期待しています。

「環境保護は一刻も余談を許さない情況にあります。何もせず放おって置くと、10年以内に環境は大きく変化するでしょう。そのため、ステップを速めなければなりません。時間との戦いなのです。私たちは「地球を愛する」理念を掲げ、「生命和平大学」の創立を企画中です。大学創立の暁には、人材が育ちます。つまり教育を用いて推進し、大学を用いて地球を愛することを押し広め、大学を用いて全ての領域や分野と繋がりを持ち、共に地球を愛する全世界運動を行うのです。」

「心が平和であれば、世界は平和である」から「地球を愛し、平和を愛す」まで。これは仏法の重要な意義です。その実、自分と他人、宇宙と自然は平和共存しているのです。今ではこれも世界の潮流に沿った共通の追求です。全ての人が共通の使命から出発し、集合体の共振力を発揮し、私たちの「愛と平和の地球の家」を取り戻すと同時に、観音菩薩とも一体に成ることを期しています。