伝承と復興-再び

霊鷲山おける観音信仰の伝承と実践

霊鷲山の開祖――心道法師はミャンマー生まれ。戦乱の時代に育ち、家族とは離散し、少年のときに孤軍とともに台湾へ渡ってきました。ある時、たまたま従軍医務官から観世音菩薩の名号を初めて聞き、思わず熱い涙を流しました。それ以来、『大悲呪』を唱え、生命への問いと答えを探し続ける道に就いたのです。その後、ミャンマーの友人から「千処祈求千処現、苦海常作度人舟」(観音菩薩はすべての人々の願いを聞き入れ、苦海を渡る舟のように衆生を済度する)という、この世を救済する観世音菩薩の物語に心を打たれ、その場で観音菩薩を生涯の師として崇め、人々を苦しみから救う観音菩薩の慈悲と精神に学ぼうと心に決めたのでした。

心道法師は「観世音菩薩普門品」から仏法の世界に入ります。また、観世音菩薩の物語に深い感銘を受け、ミャンマーの僧侶がするように、体に経文の入れ墨を入れました。左上腕には「吾不成佛誓不休」(仏に成らずば誓って休せず)、右上腕には「悟性報観音」(悟性をもって観音菩薩に報う)、腹には「真如度衆生」(真理をもって衆生を済度す)、左右の手の甲と手のひらに「卍」の入れ墨を入れ、観音菩薩に報いることを誓うとともに、修道と証道の決心をしました。心道法師は観音が出家した日に剃髪し、以後十数年にわたる墓地での修行、「寂静修」(耳根円通の修行)を経て、1984年、観音菩薩が悟道した日に、霊鷲山無生道場を開山しました。

霊鷲山では主に観音法門を修めています。開山当初より、心道法師は四部衆の子弟を率いて観音の各種修行を日常生活において実践しています。例えば毎日の『大悲呪』、「寂静修」、大悲行門による済度、般若の日常的観照、毎月各地の講堂で開催する「百万『大悲呪』」共修、及び「大悲観音円満施食会」の法会、心道法師が毎季行う『大悲呪』観音百供“閉関”修行、毎年行う「21日百万『大悲呪』」閉関共修、年に一度の水陸空大法会などです。霊鷲山は観音法門を修めたすべての功徳を衆生に差し向け、社会の協調と地球の平安を祈っているのです。

観音菩薩の慈悲と願力の下、霊鷲山は護法会を設立し、多年にわたり禅修、水陸法会、世界宗教博物館、慈善活動、華厳聖山など利生の事業を推進し、観音大悲の行門を実践しています。この数十年来、世界の苦しむ人々のもとに、仏法による愛と平和の“心の良薬”を絶えず送り届けています。

霊鷲山には多羅観音、十一面観音、毗盧観音、千手千眼観音、百八観音など多くの観音菩薩がおり、衆生を守り続けています。同時に人々がその精神に倣い、観音菩薩の化身となって、慈悲と愛を広め、世界の平和と安定を促進しています。

観音の悲願と「生命和平大学」

心道法師は、観音菩薩のカリスマ性を受け、観音菩薩の精神を携え、霊鷲山仏教教団による慈悲の志業を展開しています。法師は悪化する気候変動や苦難が増加する世界を目の当たりにし、「大悲呪」の閉関修行を発起し、「百万悲願『大悲呪』閉関」、「『大悲呪』共修」を僧俗の弟子らに呼びかけるとともに、「大悲世界」と銘打った一連の活動に取り組んでいます。人々が『大悲呪』の慈悲の力を修め、互いの慈悲の知恵を成就することにより、慈しみと善なる心で観音菩薩の衆生の苦を救う誓願を受け継ぎ、悲心を力に変え、世界の災難を終結させ、穏やかな平和を取り戻す――それが心道法師の願いなのです。

心道法師は長きにわたって『大悲呪』を修め、閉関中は毎日『大悲呪』を千回以上読誦しています。心道法師によると「『大悲呪』を唱えることで、私たちに福報、良き因縁、財運がもたらされるばかりでなく、種々の災害を遠ざけることができ、殊に『大悲呪』は自分の為ではなく、一切の衆生のために唱えるものです。『大悲呪』を唱えることは、平和の種子を蒔くことであり、種子がひとたび蒔かれれば、災害が起きることもなく、人々も平穏な暮らしを送ることができます。『大悲呪』を絶えず広め、『大悲呪』を唱える人が増えていけば、私たちの心は平和になり、世界も自ずと平和になるのです」と語っています。

1984年に霊鷲山を開山後、心道法師は1994年から世界各地の宗教と交流し、各宗教と手を携え、愛と慈悲をもって世界に関心を寄せてきました。2001年には「世界宗教博物館」を設立し、世界各地で「地球は一つの家族であり生命共同体」の思想を長年推進し、各宗教間の隔たりを取り払い、共に「愛と平和の地球家族」の実現を目指しています。毎年、世界宗教博物館では定期的に宗教祈福会を行う他、宗教の展示と定期的な特別展を通じて各宗教の文化的特色を紹介しています。博物館は宗教の多様性を人々に理解してもらう場であり、対話、交流、協力を通じて、宗教間の相互理解と相互学習を促しています。

世界宗教博物館の「尊重・包容・博愛」の理念をさらに広げるため、近年、心道法師と霊鷲山仏教教団が力を入れているのが、世界に捧げる、もう一つの貴重な贈り物-それは「生命和平大学」の創立です。ミャンマーに敷地を構える「生命和平大学」では、完全な教育体系を確立し、宗教理念を超えた平和の種子を育てていきます。また、孤児の受け入れ、農作物の有機栽培、慈善活動、医療、教育などを通して、地元の多様な種族の調和を促すとともに、民族文化宗教館を設立して「地球を愛し、平和を愛す」の理念を実践していきます。

「心が平和になれば、世界も自ずと平和になる」から「地球を愛し、平和を愛す」に至るまで、仏法の要義とは、己が他人と自然や宇宙と平和に共存することであり、今や世界が共通して追求するものと合致しています。一人ひとりの力が共鳴し合って大きな力となり、戦争や憎しみ、暴力による傷を癒やし、人間としての本来の心を取り戻すことで、対立や衝突を回避し、世界を平和に向かわせるのです。

復刻-タンカから銅彫刻の道へ

霊鷲山は観音法門を修め、心道法師は自らを「観音菩薩の下僕」と称しています。霊鷲山では至るところに観音菩薩を目にすることができます。数年前、ある偶然の因縁から「百八観音」の存在を知り、観音の教えを伝承していくためにも、百八観音の法源を探ることになりました。

しかし、百八観音の資料は極めて少なく、特に中文の文献がほとんど存在しないなかで、日本の高岡秀暢法師の発起により描かれた百八観音の白描画集が唯一の手がかりとなりました。1970年代、当時まだ若い学者であった高岡秀暢氏は、学術研究のためネパールに赴いたときに百八観音と出会い、一、二年の実地調査を経て、百八観音の白描画集を出版しました。

百八観音の由来がネパールの「百八観音寺」にあることを知ると、霊鷲山仏教教団は何度も視察に向かいました。世界にただ一つと言われる「百八観音寺」を空から見下ろすと、まるで立体のマンダラ(Mandala)のようです。本殿に鎮座するのは白い観自在聖像で、寺院の周囲の壁には銅彫刻、または彩色画の百八尊の観音像があります。2015年に発生したネパール大地震では、百八観音寺は神のご加護のもとで大きな被害はありませんでした。

また、心道法師も顕教や密教の『大蔵経』などの関連文献から、百八観音についての更なる手がかりを求めました。諦めず調査を続けたかいあって、ついに台湾の大華厳寺に収蔵されていた百八観音のタンカ二幅にたどり着くことができました。その二幅のタンカの様式は、チベット仏教にも中国仏教にも属さず、まさにネパールの画風を継承したものでした。百八観音の法源を探る取り組みは、ネパールで得た情報と合わせ、徐々に解明へと向かっていきました。

観音菩薩の法脈は霊鷲山の礎であり、永久に止まることなく伝承されていくものです。このため、教団は台湾の著名芸術家-林健成先生とクンサンチェペーラマの二人に、百八観音の彩色銅彫刻とタンカの制作を要請。数年の歳月を経て、世界で唯一、且つ完全な「百八観音」の銅彫刻とタンカ画集が完成し、銅彫刻は聖山寺に安置され、百八観音の画集も2018年に出版されました。

では、なぜ銅彫刻とタンカの二種類を制作したのでしょうか。信仰と文化の継承は、芸術による表現と切り離せない関係にあります。タンカの歴史は古く、独特な文化的意義と美しさを備えた誰もが知る表現形式ですが、一方の銅彫刻はまったく新しい表現手法です。これは百八観音像が安置されている聖山寺が台湾の北東の海辺にあり、多湿の環境下で末永く保存し、より多くの人々に参拝してもらうにためは、銅が最適であると考えられたためです。

なんの手がかりもない情況で探し始めてから、百八観音の彩色銅彫刻とタンカを完成させるまで、実に十年近い月日を費やしました。心道法師の願いは「こうして百八観音の聖なるお姿を仰げることは大変幸せなことであり、そこから菩薩の広大無辺なる悲心を体得し、その慈悲深い願力を学ぶのです」と語ります。

クンサン・チェペーラマによる百八観音タンカの復刻

クンサン・チェペーラマは17歳のときからタンカを学び、すでに三十年以上の経験を積んでいます。彼は、「タンカは衆生の利益のために描くものです。具体的な図案があれば、人々も菩薩を観想しやすくなります」と述べています。

タンカで最も重要なのは「如法」、つまり伝統に則って描くことです。霊鷲山の委託により百八観音のタンカを描くことになりましたが、これはクンサン・チェペー氏にとっても初めてのことでした。タンカの制作は、まずクンサン・チェペー氏が台湾で下絵を描き、これらの下絵をネパールに送り、彼の弟子が彩色するというものでした。こうして二年余りの時間をかけて、百八幅の観音タンカはようやく完成しました。

クンサン・チェペーラマによると、タンカで第一に重要なのは正確な比率、次に五官、そして手足を荘厳に描くことだと話しています。「特に難しいのが目です。目の描き方が少しでもおかしいと、ほかの部分がどんなによくても失敗に等しいのです」とも語っています。

クンサン・チェペーラマが、ある物語を聞かせてくれました。

その昔、ある老いた母親がいました。母親の切なる願いは仏牙を祀り、礼拝することでした。そのため、息子が出かけるたびに仏牙をもらってくるよう頼むのですが、息子は毎回のように忘れて帰ってくるのでした。ついに怒った母親は、出かける息子に言い放ちました。

「もし今度も仏牙を忘れてきたら、お前の目の前で死んでやる!」

 しかし、息子はやはり忘れてしまっていました。間もなく家に着くというときに、ふと仏牙のことを思い出した息子は、慌てて道ばたで死んでいた犬の牙を抜き、布に包んで母親に渡しながら言いました。「母さん、ずっと欲しがっていた仏牙、もらってきたよ!」と、すると母親は大いに喜び、毎日のように心を込めて礼拝したということです。

「どのタンカも仏なのであり、それに本物も偽りもありません。我々人間も偽りなのです。重要なのは誠心誠意であるかということ。タンカがいかに伝統に則って描かれていようと、どんなに荘厳に描かれていようと、心の底から信じようとしなければ、なんの意味もありません。仏の道を学ぶということは、心が最も重要なのです」

 

「空前の」百八観音彩色銅彫刻

名彫刻家-林健成先生と霊鷲山との縁は、世界宗教博物館の「世界十大宗教建築」での模型制作が始まりでした。林先生は大いなる絶賛を受けた「十大宗教建築」の模型を完成させたのに続き、教団の委託により正覚塔、大金塔などの模型を手がけ、2014年には心道法師の委託により「空前の」百八観音彩色銅彫刻を制作しました。

その難しい挑戦がなぜ「空前」なのか。

「百八尊の作品はどれも小さく、観音様の頭部など親指ぐらいの大きさしかありません。目や鼻など五官を細かく彫刻するのは、まさに“微細彫刻”の域であり、息を止めて作業するほどでした。作品が小さいが故の難しさです。また、仏像制作に当たり、伝統を打ち破りたいと考えました。まずは素材に銅を使ったこと、そして表現においては新しい創意と現代的な要素を取り入れました」

また、「当初は泥塑で制作していましたが、浮き彫りなので非常に薄く、乾きやすいのが難点でした。乾いてしまうと最初から作り直さなければなりません。そこで、方法を変えることにしたのです。仏像部分を先に完成させ、繊維強化プラスチックの型を取るのです。これで乾いてしまうこともありません。これが一つ目の挑戦でした。二つ目の挑戦は彩色です。普通は銅の部分すべてに色をかぶせるのですが、色をのせた後も銅の素材であることがわかるように仕上げようと思ったのです。銅の質感を残すために、彩色方法の研究にかなりの時間を費やしました」

林先生は熱心に研究しているという作品を見せてくれました。

「この作品のように、白く塗った部分は銅の色味が出てきません。そこで鉱物を使用しました。鉱物は無機物なので色褪せしないのです。顔料を1200度の窯に入れて熱し、取り出して研磨します。これを使って調合した色なら、絶対に色褪せることはありません」この方法、実は林先生の得意とする蝋人形の制作方法でもありました。「世界で私が作った蝋人形だけが色褪せません。無機物を使っているからです」「(彩色は)何層にも色をのせていきます……こうすることで下から銅の色が浮き上がってくるのです」「(このような方法は)空前だと言えるでしょう。絶後かどうかは分かりませんが……」林先生は笑いながら、そう言いました。

「引き受けたからには完璧に仕上げたい」

 林先生と制作チームは、当初の予定より二、三倍の時間をかけ、ようやく百八観音の彩色銅彫刻を完成させました。信仰と文化、芸術が織りなす貴重な作品は、人々の参拝と鑑賞を受けながら、神聖なる慈悲の力を共鳴させています。

大破大立 - 芸術家 林健成の創作の道のり

 彫塑芸術の大家-林健成先生は、三、四十年前から優れた蝋人形職人として名を馳せ、台湾の多くの博物館のみならず、アメリカ、カナダ、イギリス、ベルギー、ニュージーランド、日本、韓国などでも、林先生が手がけた蝋人形作品を見ることができます。

林先生はまた、創作への厳しさで知られています。幼い頃から絵画、京劇、武術のほか、バレエ、タップダンスなど幅広い趣味を持ち、同時にアスリートでもありました。のちに「蝋人形を作ることが使命」と感じ、蝋人形の世界に入っていきます。蝋人形の制作は各種素材の知識が必要であり、「これまでの経験がすべて蝋人形の制作に溶け込んでいる」と林先生は話します。

「私は難しいことに挑戦するのが好きで、誰にでもできるようなことには興味がないのです」謙虚な人柄の林先生がこう話すとき、その言葉に少しも驕りは感じられず、ただ本心を述べているようでした。「どの作品も芸術品として創っています」。これが林先生の創作への姿勢です。

「芸術品であり商品ではないので、同じものを二つ創ることはしません。創ったとしてもアトリエの外には出しませんよ。」このため、海外から蝋人形や世界十大宗教建築の模型の制作依頼があっても、ことごとく断っているということです。

仲間によく言うのですが、創るなら最高のものを創る、チャレンジ性のあるものを創る、簡単なものはほかに任せればよいと……考えていることは単純なんですよ」蝋人形と銅彫刻の創作については「材質や方法が違うだけで、創るときの気持ちは同じ」としていますが、菩薩像と蝋人形の制作時では、心持ちも異なってくるようです。

「人間の塑像は「似せる」ための技術力が必要ですが、仏像の場合は技術力だけでなく、心の静けさが最も重要なのです。さもなければ慈悲に満ちた仏像は創れません」

「専ら気を柔に致す、芸術は禅修の如し」。林先生の創作時の集中力は、まるで禅修そのものでした。生涯の代表作とも言うべき「百八観音」の彩色銅彫刻を完成させた後、林健成先生は2018年1月5日に永眠されました。享年八十でした。林先生がこの世に残した数々の傑作は、芸術の真、善、美だけでなく、困難をいとわない、極みを目指す芸術家の品格をも伝えています。

 

 

 

日本徳林寺-高岡法師と百八観音

高岡法師は出家する前は学者でした。大学時代に美術史を専攻していた高岡氏は、インド仏教の図像学を紹介した本でネパールの百八観音の存在を知り、ネパールの観音信仰に興味を持ち始めました。1970年代、研究のためインドに向かう途中、ネパールで大病に罹り、カトマンズで半年間療養したことがありました。そのときに知り合ったのが、セト・マチェンドラナート寺院の百八観音像の制作責任者である、絵師のアモーガ・バジュラ・バジュラチャールヤ(Amoghavajra Bajracharya)氏でした。百八観音の木版画を目にしたのも、この時が初めてだったそうです。

当時、百八観音寺の観音像について、アモーガバジュラ バジュラチャールヤ(Amoghavajra Bajracharya)氏は次のように話していたということです。

ジャナ・バハール(Jana Bahal)(百八観音寺)の主殿の百八観音像の版画は、奉納されてから時間が経っているため、色も形も、手に持つものもぼやけてしまっていました。そこで、私の指揮のもとで復原を進めたのです。当初の百八観音像はバタチャリア(Bhattacharyya)の『The Indian Buddhist iconography』を参考にしましたが、不確かな部分が多かったため、修復時に『サーダナマーラー』(Sadhanamala)や『ニシュパンナヨーガーヴァリー』(Nispannayogavali)を参照したほか、ジャナ・バハール(Jana Bahal)に安置されている観音像と彫像を調査、整理し、1966年に完成させました。昔の版画は上階に保存してあります」と。

これらの図像が極めて貴重且つ重要であることを知っていた高岡法師は、1975年頃に友人らと「百八観音木刻図像集刊行会」を設立し、『百八観音木刻図像集』を出版。文化保存のための刊行との初心に基づき、出版にあたっては現代的な印刷技術は一切使用せず、ネパールの仏画絵師による下絵、シェルパ族の版画師による木版彫刻、ヒマラヤ山麓で作られた手漉き紙を用いて手作りの台紙に貼り、伝統的な技法により図像集を完成させました。

この図像集の縮刷版と、観音菩薩にまつわる伝説、物語を一冊の本にまとめた『ネパール百八観音紹介』を1979年に出版した他、1990年には高岡法師の撮影によるジャナ・バハール(Jana Bahal)寺院の百八観音写真集を出版し、百八観音像を写真に収めた初の写真集となりました。

では、高岡法師はどのようにして百八観音像の写真を撮ったのでしょうか。観音像にはガラスのカバーがついており、長年の塵や鳥の糞などで大変汚れていました。1974年、アモーガバジュラ バジュラチャールヤ(Amoghavajra Bajracharya)氏と相談し、高岡法師はガラスをきれいにすることを交換条件に、ガラスを取り外す際に観音像の写真を撮らせてもらいました。そして発願、三回の募金、段階的な出版により、この百八観音写真集を出版したのです。

(注記/追加)日本の観音信仰と百八観音寺の人々の実践

日本でも三十三観音、百観音など観音信仰があります。三十三観音は一定の時期を経て形成され、そのもとに百観音巡礼(西国・坂東・秩父観音霊場)が発展し、日本の民間信仰の一つとなっています。

また、1600年ごろにカトリック教やキリスト教が伝えられ、九州地方では西洋宗教への徹底した弾圧政策が取られました。このため、九州地方ではいわゆる「マリア観音」が現れ、信徒らは聖母マリアに見立てた観音菩薩像に祈りを捧げ、疑われたときの言い逃れにもしました。

一方、カトマンズの百八観音寺(セト・マチェンドラナート寺院)では、どのような参拝が行われるのでしょうか。高岡法師によると、毎朝日が昇ると、人々(主に女性)が寺院の広場に集まり、百八尊の観音の名号を唱えるそうです。また、毎月8日には不空羂索観音を本尊とした厳かな儀式が行われます。

 

高岡法師の文化伝承の道

若いころにネパールに滞在していた高岡法師は、カトマンズでサンスクリット語で書かれた仏典に触れ、それらが儀軌の中で実際に用いられるところも目にしました。しかし当時、利益追求のため、地元ではサンスクリット語で記されたこれらの古文書が市場で売りさばかれるという現実がありました。高岡法師は大変残念に思い、貴重な古文書を売ってはならないと説得するも徒労に終わり、自身にもすべてを買い取る経済力はありませんでした。そのときの高岡法師に唯一できたことは、写真というかたちで古文書の保存を図ることでした。これが高岡法師のネパール文化の復興、サンスクリット語や紙本資料の保存とデジタル化に取り組む、最初のきっかけとなったのです。

高岡法師らはカトマンズ近辺で研究施設を立ち上げ、文化保存に向けた二つの取り組みを進めています。一つ目はサンスクリット語写本の保存です。サンスクリット語で書かれた仏典は、ネパールでは日常生活のなかで実際に使われており、保存すべき貴重な古文物です。この取り組みに於いては、サンスクリットの書写や校正などが課題となります。ネパール人は実際にサンスクリット語を使用しているものの、これらの作業にむけた人材の育成や、サンスクリット語のレベル向上も必要になってきます。二つ目の取り組みは、サンスクリット語の古文書を現代の技術を用いてデジタル化することです。デジタル化により、保存の目的を果たすばかりでなく、世界に公開できるというメリットもあります。

ネパールでもサンスクリット語の古文書の保存とデジタル化が進められていますが、台湾霊鷲山も彩色銅彫刻とタンカを新たに制作し、百八観音の再現・修復を通して文化伝承に取り組んでいます。これについて高岡法師は、宗教の最も原始的な要素をできるだけ完全に、精確に伝承していかなければならないと述べ、各地域の最も得意とする方法と、最も適切な方法でこれを行うことは大変素晴らしいことであり、みんなで文化保存に取り組むべきだとしました。

その他、非常に奇妙な地元では百八観音はあまり重視されていませんが、外国人による重視と保護活動は、ネパール人が自らの文化をもう一度見直し、大切にしていこうという気運を高めてくれるはずです。